忙しい、について考える

バカみたいに忙しい一週間だった。

忙しい、という表現は少し的外れなのかもしれない。一週間のうちのほとんどが「ルーチン」以外の行動であったが、スケジュール自体はそれほどタイトなものではなかった。

では、私はいったいどうして、この一週間をこんなに忙しいと感じたのだろう。

まずは体力的に。

普段から移動は車で、職場では座りっぱなし、特に体を動かす習慣も趣味もない。それが今回は移動のほとんどが公共交通機関、乗り換えや目的地までの移動と本当によく歩いた。荷物も多く、運動不足の体には相当負担を感じた。

また、いわゆる「仕事上の付き合い」により、普段ほとんど口にする機会の無いアルコールをそれなりの量飲むこととなった。元々それほど酒に強い訳でもない。酔ったときの体の変化は、それなりに負担になる部分も大きい。

さらに、それらの付き合いにより睡眠時間が削られるのも、疲れが溜まる要因なのだろう。

身体が疲れた。だから、私は忙しかった。

普通は忙しいから身体が疲れるのかもしれないが、何かをした結果疲れたのならば、その原因を忙しかったからと感じることもあるだろう。

 

では、忙しいと判断した頭や、忙しいと感じた心は?

行動と照らし合わせてみる。

公共交通機関での移動は、慣れた移動で無い限り、時間や手段を考える手間が大きく増える。また、今回は一人行動ではなかったため、さらに時間的に制約される場面が多かった。自由に時間を使えない、というのはある種のストレスかもしれない。

人と行動を共にするときには、ある程度の気遣いも必要になってくる。また、気遣いを受けることについても何らかのストレスが生じる。(ありがとうを通り越し、すみませんとなるような)

八方美人はもはや習慣で、それが仕事の場であったり、初対面の人間が相手となれば尚更その傾向は強くなる。

感情の上下に関しても、相当なストレスを感じた。あまりにも楽しいと感じることは、その逆のことへの耐性を著しく低下させる、ような気がする。少なくとも、現在の私はそういう状態だ。

アルコールを利用し、少々無理なテンションの上げ方も祟ったと思う。しかもその場での私の役回りは「それ」なのだという思い込み。とはいえ、その思い込みもあながち間違いではなかったようだが。

睡眠時間については、実際に睡眠を取る時間の長さは、実はさほど重要ではないと思っている。ただ「早く寝なければ起きられない」「たくさん寝なければ回復できない」という、こちらも思い込みなのだろうが、そう思っている以上、遅い時間の就寝も短時間の睡眠も、不安を煽る材料でしかない。

こうひとつひとつ書き出してみると「忙しい」と言いながらも、実際に自分がその単語から連想する状況とはだいぶ隔たりがあるように思える。

やるべきことが特定の時間内により多くある状況を「忙しい」と表現するのだと思うが、客観的にはやるべきことがそれほど多かったようには思えない。

忙しかったのは、気持ちだ。

ああしなければ、こうしなければ、そうしたい、したくない、なぜああしてしまったのだろう、次はこうできたらいい。嬉しい、楽しい、怖い、辛い…。

頭を色々な考えが廻り、それに伴い感情がくるくると変化する。

なるほど、目に見えない部分は、ずいぶんと忙しかったようだ。それがこの疲れか。

 

世の中の人は、どのようにしてこの忙しさを乗りこなしているのだろう。

本当に、首から上がスッパリと無くなってしまえばいいのになぁ。

今のところは、そんな非現実的な方法以外に、気持ちの忙しさを緩和できる方法が思い付かないのだ。