やる気がでない
やる気がでない。
ずいぶん長いこと、コレが私を悩ませ続けている。
そもそも、やる気を出そうと思ったところで、やる気になったためしなど無い。
あるとき突然、勝手にやる気になるのだ。
それがどういう時なのかが、サッパリわからない。
やる気があるときは、頭がハッキリしている気がする。
やらなきゃいけないことが次々に見えてきて、それを実行することが苦にならない。
体もサクサク動く。そして、それがとても心地よいのだ。
しかし、そんな状態になるのは、半年に1度もあるかないか。
ほとんどの時間を、私は何事もやる気になれずに過ごしている。
やる気がないのに、やらなけらばならないことはドンドン積み重なっていく。
そのペースにまったく追い付けないまま、毎日が過ぎていく。
どんよりとした頭と、重い身体で、ギリギリ暮らす。
生きてはいるけれど、生活は成り立っていないな、と思う。
生活をしたい。普通に。
たったそれだけのことに、まさかやる気が必要だとは。
自分が情けなく思える。
でも、やっぱりやる気は起きない。
では、今、こうしてブログを書くのは、どういうことなんだろう?
けっして、何もかも出来ないわけではないのだ。
じゃあ、何ならできるんだろ。
とりあえず、洗濯と食器洗いと風呂と着替えくらいは、苦痛を伴わずにできるようになってくれると有り難いのだが。
大丈夫
眠い。毎日眠い。そしてボンヤリする。
…と、病院で相談したところ、1日あたり4錠服用していた薬を、また3錠に戻すことになった。
今日で5日目。眠気もボンヤリも無くなりはしないが、軽くなったとは思う。
このくらいの調子があと1週間くらい続いてくれると、次のステップも見えてくるような気がするのだが…。
動悸と息苦しさが減ったのは、本当に助かる。食欲も徐々に戻っている。
大丈夫。行きつ戻りつしていても、多分良い方に進んでいる、ような気がする。
大丈夫。
本当は誰かにかけてもらいたい言葉を、私はずっと自分自身でかけ続けてきた。
大丈夫。
前のように楽しい時間がたくさん過ごせれば良いのに、と思うけれど、多分そうじゃない。
早く治れば良いのに、と思うけれど、多分そうじゃない。
大丈夫。
だって私は進んでいるのだから。
忙しい、について考える
バカみたいに忙しい一週間だった。
忙しい、という表現は少し的外れなのかもしれない。一週間のうちのほとんどが「ルーチン」以外の行動であったが、スケジュール自体はそれほどタイトなものではなかった。
では、私はいったいどうして、この一週間をこんなに忙しいと感じたのだろう。
まずは体力的に。
普段から移動は車で、職場では座りっぱなし、特に体を動かす習慣も趣味もない。それが今回は移動のほとんどが公共交通機関、乗り換えや目的地までの移動と本当によく歩いた。荷物も多く、運動不足の体には相当負担を感じた。
また、いわゆる「仕事上の付き合い」により、普段ほとんど口にする機会の無いアルコールをそれなりの量飲むこととなった。元々それほど酒に強い訳でもない。酔ったときの体の変化は、それなりに負担になる部分も大きい。
さらに、それらの付き合いにより睡眠時間が削られるのも、疲れが溜まる要因なのだろう。
身体が疲れた。だから、私は忙しかった。
普通は忙しいから身体が疲れるのかもしれないが、何かをした結果疲れたのならば、その原因を忙しかったからと感じることもあるだろう。
では、忙しいと判断した頭や、忙しいと感じた心は?
行動と照らし合わせてみる。
公共交通機関での移動は、慣れた移動で無い限り、時間や手段を考える手間が大きく増える。また、今回は一人行動ではなかったため、さらに時間的に制約される場面が多かった。自由に時間を使えない、というのはある種のストレスかもしれない。
人と行動を共にするときには、ある程度の気遣いも必要になってくる。また、気遣いを受けることについても何らかのストレスが生じる。(ありがとうを通り越し、すみませんとなるような)
八方美人はもはや習慣で、それが仕事の場であったり、初対面の人間が相手となれば尚更その傾向は強くなる。
感情の上下に関しても、相当なストレスを感じた。あまりにも楽しいと感じることは、その逆のことへの耐性を著しく低下させる、ような気がする。少なくとも、現在の私はそういう状態だ。
アルコールを利用し、少々無理なテンションの上げ方も祟ったと思う。しかもその場での私の役回りは「それ」なのだという思い込み。とはいえ、その思い込みもあながち間違いではなかったようだが。
睡眠時間については、実際に睡眠を取る時間の長さは、実はさほど重要ではないと思っている。ただ「早く寝なければ起きられない」「たくさん寝なければ回復できない」という、こちらも思い込みなのだろうが、そう思っている以上、遅い時間の就寝も短時間の睡眠も、不安を煽る材料でしかない。
こうひとつひとつ書き出してみると「忙しい」と言いながらも、実際に自分がその単語から連想する状況とはだいぶ隔たりがあるように思える。
やるべきことが特定の時間内により多くある状況を「忙しい」と表現するのだと思うが、客観的にはやるべきことがそれほど多かったようには思えない。
忙しかったのは、気持ちだ。
ああしなければ、こうしなければ、そうしたい、したくない、なぜああしてしまったのだろう、次はこうできたらいい。嬉しい、楽しい、怖い、辛い…。
頭を色々な考えが廻り、それに伴い感情がくるくると変化する。
なるほど、目に見えない部分は、ずいぶんと忙しかったようだ。それがこの疲れか。
世の中の人は、どのようにしてこの忙しさを乗りこなしているのだろう。
本当に、首から上がスッパリと無くなってしまえばいいのになぁ。
今のところは、そんな非現実的な方法以外に、気持ちの忙しさを緩和できる方法が思い付かないのだ。
寝たい
眠い。とにかく眠い。
なにこれどうすんの、っていうくらい眠い。
動悸と息苦しさが和らいだら、代わりに眠気がやってきた。
こう、胃のあたりから疲れがグワッと上がってきて、体が重くて眠たい感じ。
まぁ、以前ほぼ毎日あった、アレだ。
苦しいよりは良い気もするが、眠いのに寝ちゃいけないっていうのもわりと辛いな。
できれば3日間くらい寝たい気分だが、明日からの3連休はあいにく2日間外出予定だ。もうそれを考えるだけでゲンナリする。自分で立てた予定だというのに。
こう日記をつけていると、自分がある程度同じ症状を繰り返していることがわかる。
「動悸・息苦しさ」
「よく泣く」
「ひどい眠気」
組み合わさって出ることもあるけれど、だいたい順繰りで廻っている。
で、共通するのが無気力、と。
あぁ、でも無気力にもムラがあるな。やれる時とやれない時の差が何なのかは分からない。
今日は通院の日。
さて、いまのこの状況を、どう説明したものか。
とりあえず、長い待ち時間も寝てれば苦にならないので、良しとしようか。
薬の効用
驚いた。
2日連続で私は、コンタクトレンズを嵌め化粧をし、きちんと服と靴を選んで外出した。
こんなことは何ヶ月ぶりだろう。
ふと、気が向いたのだ。
少しでも気持ちがザワついたら止めるつもりだった。
しかし私はそれを特に抵抗もなく、まるでそうすることが日常であるかのように淡々と進めた。(むしろ、外出の方に抵抗があったのだが…。)
そういえば、昨日今日と動悸や不安感が軽い。頭も多少ハッキリしている気がする。
この突然の変化については、思い当たることがある。
3日前から、3錠だった薬が4錠に増えたのだ。ほんの2週間前までは2錠だったものが。
さて、明日の私はどうなるのか。
本当に薬の効果であれば、明日も同じように外出できるのかもしれない。
できなくても、それを苦痛に感じないかもしれない。
期待してしまう。苦しくない日々を取り戻せるのではないかと。
焦るな。
嵐の前の
今月は少し、外出や人に会う予定が多い。
突発的に用事が入ることもある。
なかなかどうして、
療養中という看板でもかけておかなければ、人と関わらずに生活するのは難しいようだ。
スケジュールを見ては、ため息、不安、焦り。
でも、暗い感情のなかに期待も少し。
変化は何かを連れてくる。それが素敵なものであればいいなと願う。
泣きたい・泣きたくない
いつもだいたい泣きそうな気持ちである。理由はよく分からない。
でも、実際に涙が出ることはあまりない。
泣きそうで泣けないというのは意外と苦しいものだ。
泣けないまま動悸が酷くなって、震えが止まらなくなったことがある。
そのまま一晩中震えていた。
何だか、体の中に溜まった恐れや悲しみが、出口を見つけられず暴れているようだと思った。
今の病院に通い始めた直接のきっかけは、実はこれとは真逆の症状だった。
「泣きそう」が一転し、ダムが決壊でもしたかのように泣き始めたのだ。
あの頃、私はいつも泣いていた。特に、人と会話すると必ず泣いた。
外出時には箱ティッシュとビニール袋(ゴミ用)を持ち歩いた。
とてもじゃないが、仕事どころではなかった。
あれからもう1年以上経つ。
いつの間にか、人と会っても泣かなくなった。
泣きそうな気持ちはずっと続いていたが、時折軽い動悸を感じる程度で、震えるほど酷くなるようなことはほとんど無くなった。
泣きそうな気持ちがなくなる瞬間も、だんだんと増えてきたように感じられていた。
のだが…。
ここ3、4日、私は1日に一回以上涙を流している。
一度に流す涙の量はあまり多くない。泣いている時間も短い。
しかし、日を追う毎に回数が増えている。
まるでヒビでも入って、少しずつ中身が漏れ出しているような。
泣いたあとは少し落ち着く。そしてまだまだ泣き足りないと感じる。
胸の辺りに重苦しく蠢いている何か
頭のなかでモヤモヤと停滞している何か
そういった苦痛の元を、涙と共に排出してしまいたいのだ。
でも、だけど、もし。
泣き始めて、止まらなくなったら?
またいつでもどこでも泣くようになってしまったら?
そしたらまた誰にも会えない。仕事にも行けない。買い物にだって行けるかどうか。
泣きたいけれど、泣くのが怖い。
明日は、明後日は、その次は…いったい自分はどうなるのだろう。
泣けるかもしれないという期待と、泣き続けるかもしれないという不安が、私の中で渦を巻いている。